都政新報
 
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震災へのまなざし~東日本大震災から10年(中)/前だけを向く被災者/「ゼロになった。もうプラスだけ」


  幾重にも重なる山の中、次々にトンネルを抜ける。「海だ!」。ついに青く光り輝く海が見えた。記者が幼い頃からよく来た岩手の海は、何度見てもきれいだ。
 大船渡市越喜来(おきらい)。三陸鉄道リアス線の三陸駅で待ち合わせたのは、地元のテレビ局に勤める友人に紹介してもらったプロヴォ・イザベルさん。フランスの田舎町出身で、震災直後にボランティアで大船渡を訪れ、2019年5月から地域おこし協力隊として移住。つい数カ月前には越喜来湾でホタテ養殖業を営む佐々木淳さんと結婚し、名実ともに「大船渡の人」に。この日は1日、彼女に案内をお願いしていた。
 最初に向かったのはイザベルさんが紹介してくれた片山和一良さんの活動場所。ここで生まれ育ち、建設業を営んでいたが、今は引退して地域の活動に精を出している。
 津波で家も会社も流され、去年やっとかさ上げした土地に新居が完成した。訪れたプレハブは、かつて自宅があった場所だ。窓の外には片山さんが作った震災の学習展示が見え、涙がこみ上げるのをこらえて話を聞いた。しかしそんな記者をよそに片山さんは、「震災は悲しいイメージが強いが、プラスのこともある」と言い切る。
 当時、片山さんは公民館に避難し、3日間陸の孤島になった。泣き崩れる人もいたが、明日のことを考え、自分ができることをすぐ行動に移した人が多かったという。「地域の人の強さ、底力を感じたね」と話し、「無くなったものにすがっていてもしょうがない。ゼロになったらあとはもうプラスしかないだろ?」と前だけを見る。
 「(ボランティアなどで)来た人を案内したら感動してくれてな。それでこのまちの良さを認識した」。まちづくり委員会での活動も、この経験があったからという。「70歳になるけど、震災前の60年間よりこの10年でつながった人のほうが多いんだ。日本だけでなく世界にまで広がったし、震災がなければつながらなかった人も多い」
 ただ毎年来てくれていた人もコロナ禍でしばらく来ていない、と寂しそうに話す。コロナが被災地に通わなくなる口実になりはしないか、懸念が浮かんだ。

■ホタテが紡いだ縁
 片山さんのプレハブから車で数分。ホタテ養殖の道具が並ぶ作業場にイザベルさんの夫・佐々木さんはいた。彼も地元出身で、「恋し浜ホタテ」のブランド化の立役者だ。若者が中心になってブランド化に取り組み、勢いに乗っていた矢先に震災に見舞われた。ホタテは全部流されたが、発災から数日後にはホタテを通して縁があった人々が続々と来てくれた。
 「ホタテが全部紡いでくれた」。震災以前は佐々木さんたち若者の取り組みをあまりよく思っていなかった年長者も、物資と人がやってくるのを見て認め始めたという。
 佐々木さんは震災直後から、「動いていれば何とかなるべ」とポジティブだったというから驚きだ。「落ち込みはせず、むしろ努力してきてよかったと思った」と振り返るが、一方で人とのつながりがなければ、船も失ったので漁業をやめていたかもしれないという。
 震災を理由に漁業をやめた仲間はいなかったといい、11年の12月には養殖を再開した。
 「大変だったが、採るのもつくるのも人なら、食べるのも人。結局、人と人。だから人とのつながりを大切にするのはもちろんのこと、いかに広げるかが大切」と話す。
 震災後はつながりがさらに大きく飛躍したといい、「10年で区切ったり止まったりすることなく、これからも新たなチャレンジを続けたい」と海の男らしく力強く語った。
    ◇
 震災当時岩手県の内陸部で中学生だった記者も東京では「当事者」に近い立場だが、津波被害を乗り越えてきた人たちを前に、津波に関してはどこか他人事として見ていたことに気付かされた。記者は震災を思い出すたびに被害にあった人の痛みを想像して悲しくなっていたが、思い出すということは忘れている時間があるということだ。一方、被災地で生きる人たちにとっては、思い出すことではなく、現実であり日常だ。生きるためには前を向くしかないことを感じさせられた。
 

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