都政新報
 
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震災へのまなざし~東日本大震災から10年(上)/東京に来た被災者/「大丈夫だった?」に傷つく人々


   「津波で死んだ人たちは自業自得だ」─。東日本大震災の記憶もまだ新しい頃、岩手から上京した記者が東京の予備校で講師に放たれた言葉は今も心に深く突き刺さっている。講師いわく、「あれだけ大きな地震だったのだから大きな津波が来ることは当然予想できただろうし、津波が来るまでに数十分あったのだから逃げられただろう」。この言葉を言われた日の夜は怒りで眠れなかった。
 記者と同じ高校の同級生で、津波を実際に経験し、大学で上京して現在は都内で公務員として働く友人にこのエピソードを話すと、一瞬間を置いた後、冷静に言葉を選びながら、「岩手の沿岸部はこれまでに何度も津波に襲われている地域なので、防災意識はとても高い。他の人を助けようとして津波にのみ込まれた人もいるし、その人は一つの側面からしか津波・震災を見ていない」と話した。
 講師は私が被災県出身であることを知らなかった。当時、出身地を告げると必ず「地震、大丈夫だった?」と心配してくれる人がほとんどだったが、面と向かっては言わずとも、心の中では講師と同じように思っていた人もいたのかもしれない。
 ただ、良心のつもりで発する「心配」の言葉も、時には人を傷つける。身近な人の死も多く目の当たりにした友人は、「『大丈夫だった?』と時も場所も選ばすに聞いてくる人がいるけど、大丈夫じゃなかったらどうするんだろう」。友人自身、家族を亡くしたわけではないため、「ぎりぎりまで水は来たが大丈夫だった」と答えているというが、大切な人を亡くした人は毎回その質問にどう答えているのかと想像すると、心情は察するに余りある。
 「大丈夫だった?」─。衝撃の大きな災害だったがゆえ、条件反射のように口をついて出てしまう言葉だが、想像力や思いやりのないうわべだけの「心配」は大きな危険性をはらんでいる。

■「被災してないんだね」
 上京後、被災県出身者として、東京で出会った人と意識や認識の差を感じることは多々あった。
 例えば、東京では「被災=津波」の図式から思考が停止している人も多く感じる。当時、内陸にいたと話すと、「じゃあ被災してないんだね」と言われることも多い。もちろん津波による被害は圧倒的だったが、あの震災は多くの人に可視・不可視かかわらず様々な痛みをもたらしたことを想像すべきだと思う。
 実際、「揺れただけ」だった記者でも、震災以降は地震が来る前や普段から地鳴りが聞こえる感覚があり、震えが止まらない時もあった。また、郷里が様変わりしてしまったり、同郷の人が多く亡くなって心が痛くないわけもない。
 私自身は想像力のない言葉に傷つき、反論することを途中からやめてしまったが、一方で友人は「傷つくというよりも、受け取り方が根本的に違うんだなと思う」と認識の違いを言い表す。
 ただ、ここ東京でも震災について自ら知ろうとし、寄り添ってきた人たちも少なくなく、思いやりのある温かい気持ちを受け取ることも多々あるのも事実だ。
 震災から10年が経つ今年は新型コロナという「災害」に見舞われた年でもある。友人は「10年前と今は逆で、東京が大きな『被災地』となり、岩手など地方の人が想像力のないまなざしを向ける側になっている」と語りながら、こう付け加えた。
 「『普通の日常』は普通ではなく、誰もがいつ『被災者』になってもおかしくない。『被災者』『非・被災者』などと二項対立で考えるのではなく、立場も痛みもグラデーションであることを意識すべきだ」
     ◇
 東日本大震災から今年で10年。「震災を忘れない」という文句が多く流布しているのは、震災は年とともに風化しつつあることの証左でもある。だが、当事者にとっては忘れるものではなく、震災は今も心の中で生き物のように生き続けている。これは日本中で多発する多くの災害を経験した人にとっても同じだろう。東京と被災地・岩手を舞台に、同県出身の記者が、「震災から10年」の今のまなざしを3回のシリーズで追う。
 

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