都政新報
 
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最前線~on the Front Line/東日本大震災から10年/福島県浜通りの「今」


  東日本大震災から11日で10年の節目を迎える。被災地は今、どこまで復興しているのか、原発事故によって今も一部が帰還困難区域となっている福島県浜通りをバイクで訪れた。

 現地に向かう手段にバイクを選んだのには特別な思いもあった。福島県浜通りを走る国道6号線は、茨城県出身の記者にとってどこに行くにも最初に通るなじみ深い道だったが、福島第一原子力発電所の爆発事故によって原発周辺の6号線は通行が禁止となり、その後、2014年9月に通行が再開された際も体が外気に直接触れるバイクは除外されていた。ようやく解除されたのが去年の3月。これまで何度も走った浜通りを再びバイクで走りたい、そんな思いで2月28日、現地に向かった。

■時間がもたらした変化
 この周辺を訪れるのは実に5年ぶりだ。いまだに福島第一原発周辺の帰還困難区域が続く中、どこまで復旧・復興しているのか、恥ずかしながら報道ベースでしか理解していなかったが、高速道路を下りて最初に見た光景に軽い衝撃を受けた。
 それは広野ICすぐにあるサッカーのナショナルトレーニングセンター「Jビレッジ」でのことだ。青々した芝生の上で、子どもたちが元気に走り回り、それを親たちが笑顔で見守っていた。ただそれだけのことなのだが、数年前には考えられなかった光景だ。
 震災直後、福島県内では放射能で汚染された校庭の表土を入れ替えるなどの除染対策に追われた。それでも放射能物質のセシウム137の半減期が30年といわれる中、子どもたちが外で元気に遊ぶには、まだしばらく時間がかかるだろうと考えていた。実際、5年前に訪れた際にも、外で遊ぶ子どもの姿はなく、道の駅に併設されたコンクリートが打設された「シェルター」の中で母親に見守られながら遊ぶ子どもの姿が印象に残った。
 それがどうか。今では福島原発から約20キロの場所で少年少女が元気にサッカーをしている。10年間という時間は、着実な復旧だけでなく、住民の意識の変化ももたらしていることを強く印象付けた。

■変化した場所、しない場所
 ここからいよいよ国道6号線に入って北上する。以前と同じくバイクで走れることに想像以上に感動した。当たり前のことが当たり前にできる幸せ、といえばよいか。ただ、「よそ者」にはそう感じても、自転車や歩行による通行は今もできず、地元の人にとって復興は道半ばなのだろう。
 国道6号線を走って、まず感じたのが、通行車両が意外に多いことだ。それも5年前は工事関係車両ばかりだったが、今回はほとんどが自家用車だ。日曜日ということもあるかもしれないが、着実に幹線道路としての機能を回復しつつあることを実感した。
 そうした中、5年前と同じ光景だったのが大熊町などの帰還困難区域。枝道や道路沿いの家屋の前にはバリケードが張られている。ロードサイドの店舗も朽ち果てて放置され、震災直後から時が止まったままだ。10年という時間の無力さも感じずにはいられなかった。
 浪江町に入って少しすると、営業しているコンビニとガソリンスタンドを久しぶりに目にする。5年前もこのコンビニでほっとしたが、今では周辺に大型スーパーもオープンし、生活基盤が徐々に戻りつつあるようだ。
 ただ、国道から一歩入ったJR浪江駅周辺は空いた土地が目立つ。帰還困難の状態が長期に及び、朽ちた家屋などを撤去したのだろうか。こうした「歯抜け」になった街並みは、津波被害を受けた岩手や宮城県の沿岸部に似ている。東日大震災の被災地でも、原発被害を受けた福島県と津波被害を受けた沿岸部とでは異なる文脈で語られることが多いが、街から住民がいなくなり、活気が削がれる点は何ら変わりがない。

■10年目の違和感
 帰還困難区域を除いてインフラは整いつつあり、着実に復興に向かっていることを感じたが、同時にこれまで訪れた他の被災地にはない違和感も覚えた。浪江町の国道沿いに新しくできた道の駅に立ち寄ったとき、その理由に気が付いた。被災地を訪れてから、現地の人とまともに会話をする機会がないのだ。
 そもそもバイクの一人旅では人と話すことは少ないが、そうした類いの話ではない。例えば東日本大震災の被災地では、ここ浜通りも含め、至るところに復興商店街ができ、そこで地元の人と話したり、被災者の生活の一端を感じることができた。また、ボランティアセンターなど外部の人を受け入れる拠点もあり、こうしたスポットが結果として交流の場となっていた。だが、復興後に新たに完成した道の駅では、食堂の注文も券売機となり、商品も広く域内から流通するなどシステマチックになった一方、地元の人との「近さ」が失われた気がする。それは日本のどこにでもある風景であり、ある意味、日常に戻りつつあるとも言えるのだが、人と人の距離を遠ざけることが、果たして復興と言えるのだろうか。
 「距離感の遠さ」は地域の人口減少に加え、コロナ禍の影響も少なくはないだろうが、きれいに街を整えることで、逆にコミュニケーションの機会も失われてはいないだろうか。そんな疑念も抱きつつ、現地を後にした。
      ◇
 東日本大震災の被災地には、これまで都や都内区市町村も含め、全国の自治体が応援に駆け付けて支援を行ってきた。その結果、インフラなどは10年間で「復旧」しつつある一方、地域を活性化に導く「復興」は、これからが本番のように感じた。電力の一大消費地である東京が、原発事故に見舞われたこの地域を支援する責務を負うというのであれば、10年間を「ひと区切り」とすることなく、支援を継続することが必要だ。震災から10年。支援のフェーズも変わりつつある。
 

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