都政新報
 
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私の青春シネマ15/黒部の太陽

 
  昭和43年、高校生は『黒部の太陽』を封切りで観た。その高校生は「感動」を胸に秘め、大学の土木工学科に進学した。卒業し土木技術者のタマゴとなり、なぜかダムの現場ではなく東京都庁に入った。
 この映画は、その後一般に上映されていない。DVDもない。なんとしても観たいと思っていたら、昨年石原プロなどの特別の配慮で、土木学会主催の1回だけの上映会があり、何を差し置いても駆けつけた。震えるほど感動した。さらに、時代背景など様々なことを考えながら観ることもできた。年齢を重ね、経験を積んできたこともまんざら無駄ではなかったようだ。映画を映画館のスクリーンで、また観たいと熱望している。
 さらにその後、関西電力の一般見学の仲間に加えていただき、宇奈月―欅平―黒部川第四発電所(地下施設)―黒部ダム―破砕帯のあった関電トンネル―扇沢―大町のコースを一気に回ることも出来た。映画や原作の同名の小説(木本正次著)もすばらしかったが、現地を見て、手で触れて、空気を感じてみると、なお人間の信念の尊さを思わずにはいられなかった。
 フィルムが走り出す。北アルプス連峰、真冬の夜、寒風の空に山々のシルエット。やがて山々にバラ色の朝が訪れる。大自然の厳しさ、人間の覚悟、そして明るい将来を暗示するかのようなファーストシーン。
 しかし続く場面では、切り立った稜線上に測量機材を担いだ関西電力の技術部隊が立っている。誰かが「黒部が見えたぞ」と叫ぶ。三船敏郎演じる関電技術幹部の北川が「やあ凄いな」と応じる。そして、一行が対岸の岩壁を見上げると、そこに先行した調査隊が見える。その瞬間、一人が足を踏みはずし轟音とともに奈落に吸い込まれていく。息をのむシーン。黒部の自然の厳しさやこれからの難工事が暗示されるが、前進しか許されていない北川に感情が吸い取られていく。
 黒四のある黒部渓谷は、黒部川の上流域に位置し、立山、剱岳などの立山連峰と白馬岳、鹿島槍ケ岳などの後立山連峰に囲まれた深いV字峡である。戦国時代、越中領主佐々成政が浜松の徳川家康に同盟を求めに赴く途中、多くの犠牲を払いながら厳冬期の黒部峡谷を横断した「さらさら越え」はよく知られている。
 この流域は、年間降水量3810ミリメートルという多雨豪雪地帯であり、しかも急峻な河川であるため水力資源の宝庫として注目されてきたが、人を寄せ付けない自然条件がダム建設の大きな難関となっていた。
 昭和30年代は、戦後復興から発展へ産業は急激に伸びようとしていた。電力不足がアキレス腱であり、工場では毎週のように「電休日」があった。火力発電の増強とあわせて、運用に柔軟性のある水力発電の開発が至上命題であり、関西電力は黒四の建設に社運を賭けた。
 関電社長室のシーンにも身震いを感じた。滝澤修演じる太田垣社長が立ち上がって北川を招き入れる。太田垣が北川をじっと見つめて「君、なにか今度の工事を渋っているって」。北川は半分顔を上げて「ご心配をおかけして申し訳ありませんが、なかなか自信がつかないものですから」「君に木曾川の丸山ダムをやってもらったね。その工事で革新された土木技術が、次の佐久間ダムをつくった。その成功が今度の黒四につながるんだ。君、今度の工事に関係ないとは言わせないよ」。たたみ込むように太田垣が続ける。「あの黒部で、資本金130億の関電が400億の大工事をやろうというんだ。僕も普通の決心じゃない。経営者が10割の自信を持って始める事業は仕事のうちに入らない。7割の見通しがあれば勇断をもって実行する。それでなければ本当の事業はやれるもんじゃない」。北川は太田垣の並々ならぬ決意を全身で受け止め、顔を上げる。「社長、やらせていただきます」
 二人のやり取りは、この映画に不退転の決意で取り組んでいる、三船プロダクションの三船敏郎、石原プロモーションの石原裕次郎、そして熊井啓監督(脚本も)の心情をも見事に表現している。
 当時の日本映画界には五社協定(大手の松竹、東宝、大映、東映、日活)があった。所属俳優の貸し借り、上映館の決定などに制限を設けていた。三船プロ、石原プロなど独立系にとっては、死活につながるかなり厳しい状況であった。その中で、社長でトップスターでもあった三船と石原による共同制作には相当の苦労があった。それらを乗り越え、三船敏郎、石原裕次郎そして熊井啓が『黒部の太陽』に出会い、結集し大成果を収めたことは、まさに金字塔と言える。
 三船と石原が初めて絡むシーン。北川と石原裕次郎演じる若くてかっこいい土木技術者岩岡の運命の出会い。京都の北川の自宅。そこに辰巳柳太郎演じる岩岡の父親の源三もいる。源三はトンネル工事専門の熊谷組岩岡班の親方で、大町の扇沢から黒部に至る関電トンネル工事を既に請け負っている。岩岡は源三に向かって、「掘れると思っているのかね。フォッサマグナに沿っているんだぜ」。けげんがる源三や北川の長女由紀(樫山文枝)に見せるために、岩岡は割り箸をくの字に折って続ける。「日本列島は糸魚川と静岡を結ぶあたりで、ぐっと折れ曲がっているでしょう。この屈折した部分がフォッサマグナです。ですから黒部には、どんな大きな断層や破砕帯が潜んでいるか分からないんですよ」。北川は正面を見て、「その通りですが、この工事はどうしても必要なんだ。やらねばならんのです」と譲らない。岩岡は源三を黒部から降ろそうとするが、聞く耳を持たない源三。「こいつはわしの最後の仕事だ。やめたらわしは、今日まで何のために生きてきたか分からなくなる。男になりてえんだ」。親子がすれ違ったまま、シーンが終わる。三人に言いたいことを言わせておいて、実は岩岡もいずれ黒部に参戦することになる、そんな運命の伏線を感じさせる場面だった。
 黒四の全体工事は、黒部峡谷をさかのぼる黒部ルート、立山を抜ける立山ルート、そして関電トンネルを含む大町ルートを開通させ、その後黒部ダム(アーチ式高さ186メートルで日本一)、黒部川第四発電所(岩山をくり抜いた地下施設)を建設する大事業である。工事は、熊谷組、間組、佐藤工業、大成建設、鹿島建設の5工区に分けて発注された。各社とも世紀の大事業に参画したが、先の読めない難工事に苦労の連続であったと聞いている。
 延長わずか82メートルの破砕帯。この突破に、映画『黒部の太陽』が凝縮している。山でトンネル掘削が始まった。途中で怪我をした源三に代わり、岩岡が親方として現場を仕切っていた。恐れていた破砕帯にぶち当たり、トンネル掘削の最前線、切羽で盤ぶくれが始まった。岩がはじけ飛び、地下水が激しく噴出してくる。鋼鉄製の支保工も岩山の圧力に抗し切れず、つぶれはじめる。岩岡たち作業員が必死で支えようとするが、ゴーッと鈍い山鳴りが聞こえる。映画の場面であることを忘れ、全身に恐怖が走る。力が入り、思わず身がこわばっている。早く逃げろと心の中で叫んでいた。
 関電トンネルのセットは、熊谷組の全面協力のもと、同社の工場で撮影された。山場である破砕帯との格闘場面。石原、三船の鬼気迫る演技、本物と信じさせる様々な装置と撮影技術を駆使した熊井監督の力によって、見事に描きだされた。あれほど噴出する水を使った実写の迫力は、言葉では語り尽くせない。そして、昭和32年12月2日、破砕帯82メートルを突破した。
 ついにその時が来た。岩岡の持つ削岩機がトンネル貫通の感触をつかんだ。そして最後のダイナマイトが炸裂して大きな穴が開き、両側から掘り進めてきた作業員が雪崩を打って一塊となり、喜びを爆発させる。天井から吊るされていた「安全第一」の旗が、ひらひらと揺れている。岩岡が叫ぶ。「みんな見ろ、風だ、黒部の風だ」わが身にも感動の電気が走る。涙もにじんできた。
 昭和31年7月着工。7年の歳月、総工費513億円、労働人員延べ1千万人、をかけて、ついに昭和38年6月5日、黒四工事は竣工式を迎えた。黒部ダムサイトに、彫塑家松田尚之による「六体の人物像」が建っている。黒四工事の尊い殉職者、171名の方々の慰霊碑である。合掌。
 急峻な地形、豪雨が絶えない我が国で、国民の命と暮らしを守るため、さらに、水という限られた資源を様々な形で有効利用するため、まだまだ必要なダムは数多くある。技術に裏打ちされた社会基盤の整備と維持更新に、現在に至るまで土木技術者として携われることに、誇りと感謝を持ち続けている。その原点が『黒部の太陽』である(文中敬称略)。
 (首都高速道路株式会社取締役常務執行役員 道家孝行)
 

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