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●社説 漂流する東京 都議選の年に思う
都議選の年が明けた。大企業を中心に企業収益に好転の兆しが見えるものの、他方で景気の減速もささやかれている。そうした中で的確な政策を打ち出せない政治――。希望を抱きつつも、閉塞感を払拭できない都民は多いに違いない。
1965年の刷新都議会以来、東京では都知事選と都議選が2年おきにやってくる。その時々の国政の動向を敏感に投影し、それが政党の伸張にはね返ってきた。それゆえに2つの顔をもつ選挙と言われる。1つは国政の先行指標、もう1つが都政全体に対する評価という顔である。
都政の争点というよりは、小泉政権が進めてきた自衛隊のイラク派兵など、国政の問題が焦点になる可能性はあるが、対石原都政との関係で大きな意味をもつ選挙であることに変わりはない。
■施策のネタ切れ
「国家の進むべき方向を定めることができず、漂流を続けている」
昨年の第4回定例都議会で、現在の日本の姿を石原知事はこう表現した。しかし、漂流を続けているのは、果たして国だけだろうか。
この4月で2期目の折り返しを迎えるが、1期目こそ羽田空港の再拡張や三環状道路の整備、ディーゼル車の排ガス規制など、先鋭的な施策を矢継ぎ早に打ち出して都政は輝いていた。
ところが、この2年間はどうだろうか。治安対策や将来に大きなリスクを残す新銀行東京の設立を除けば、1期目に打ち出した施策のフォローをしているだけである。知事サイドからのプレッシャーを受け、各局は個々の施策を打ち上げ花火のように上げているが、知事が関心をもっている分野で、比較的成果が短期間に出るものに目を奪われている感は否めない。こうした現状が長い目で見た時、都政にとって良いことなのか。
横田基地の軍民共用化などでは、1期目に仕込んだ施策の苗が形になりつつあるため、安定期に入ったという見方もできるが、実態は施策のネタ切れである。任期を2年あまり残し、石原都政の限界も見えてきたのではないか。
都政をどのような方向にもっていこうとしているのか、全体像も、戦略も見えないのが現在の姿である。そういう意味で今年は、すでに手をつけた施策を着実に実現すること、それと併せて短期・中期・長期の視点をしっかり峻別し、施策展開していくことが求められる年である。
■火中の栗
石原都政の功績として国がやろうとしない課題に取り組み、国政にもインパクトを与えた点がある。いわば、行政の世界ではなく、政治の世界でしか解決できない問題に挑み、解決を期待されているのが現在の都政の置かれたポジションだ。
そうであるならば、制度の改革に本腰を入れて取り組むべきである。知事流の言い方をすれば、理念なき改革は国を滅ぼすからである。都政の中で言えば都区制度改革、国では三位一体改革である。いずれも政治家として腕力が求められる課題である。
特に昨年の三位一体改革の顛末をみていると、この改革を推進するためには、強い政治的なリーダーシップが不可欠である。中央官庁への陳情とそれを仲介斡旋する国会議員。戦後日本の政治を支えてきたこの構造にメスが入ることに抵抗する人たちが、分権改革を阻止しようとしているのである。また、国庫補助負担金が削減されたら、穴埋めを地方交付税に頼る道府県には、交付税改革の旗振りが難しいことも証明された。
1月末で辞任する全国知事会の梶原拓会長は、「闘う知事会」のレールを敷き、名誉職のような会長ポストを地方の意見を代表する役割へと変えた。最後は力負けしたが、国と対等に議論もした。石原知事は、分権改革の仕切り直しを言うが、そうであるならば、火中の栗を拾い、混迷する日本を救う気概でことに当たるべきである。
■寄らば大樹の陰
さて、都議選である。主要な政党は、ほぼ公認候補の選考が終わり、事実上、選挙戦はスタートしている。今回は、消費税率の引き上げなど国政の重要課題が先延ばしされ、直近に国政選挙も控えていないため、争点がないと言われる。
しかし、この3年半の都議会を見ると、今度の都議選に期待されるものは大きい。チェック機関としての存在感が希薄で、質疑があまりにも低調だったからである。共産党など一部の会派を除くと、総与党化が進み、特に石原知事の2期目になってから翼賛的な傾向が顕著になった。
存在感を示したのは、職員の給与削減の延長と福永正通副知事の再任議案の継続審議というのでは、議決機関の存在意義が疑われても仕方がない。強い個性をもつ知事のもとでの議会とはいえ、もう少し対等に議論できる都議会であるべきだ。そのためには、各党ともプレゼンテーション能力のある候補者の育成と擁立に努め、有権者自身もそれを見抜く目が必要である。
議員選挙であるため、その結果が石原都政に対する直接の審判にはならないが、知事と議会の緊張感は、都政の発展にとって必要不可欠である。目先の選挙のことではなく、次の世代のことを考える政治家を選びたいものである。 ●価値の質感、変わってきた 行政におけるリアリティ問い直して(石原知事の新年あいさつ要旨)
明けましておめでとうございます。
昨年から今年にかけて、休みの間にいろいろなことを考えた。竹花さんが警察庁から来て、治安対策で大いに活躍してもらっているが、治安というものを突っ込んで(考えて)いくと、大都市だからいろいろな要因が絡まっている。青少年の今後のあり方、今のあり方に関与せざるを得ない。
都は青少年健全育成条例を、かなり突っ込んで改正した。それでもまだ物足りない部分がある。
この頃の若い人たちの実態について、私たちは知っているようで知らない。私もお忍びで現場に行ってすぐばれちゃったり、直接に近い間接的な方法でそういった実態を記録に留めて、関係者で眺めながら改めて慨嘆したのだが、そこで感じたことは価値の質感が大分異なってきた、ということだ。
どんな人間でも自分の行動を自分で決めるわけで、それは非常に衝動的な行動もあるだろうが、その衝動の後ろにも欲望というものがあって、その欲望を既定しているそれなりの価値観がある。この価値の質感というものが大分違ってきたなぁ、と。
私は23、4で物書きになって世の中に出て、この間読み返してみて大分舌足らずなところもあるが、題名だけは非常に素晴らしくてね(笑)『価値紊乱者の光栄』という、割と長い論文を中央公論に書いた。それを引っ張り出して読んでみたら、面映ゆい部分もあちこちあるが、そう間違ったことを言っている訳ではない。
あの頃は、戦前・戦中と続いてきた生活様式が敗戦というかたちでめちゃめちゃになって、貧困から何とか立ち上がろうと皆が努力して、ようやく消費文明に兆しが感じられるようになり、丁度私たちの青春が始まった。年配の人たちから見たら、まぁ天衣無縫というか、若者たちの実態を見て、ひんしゅくする人も随分いた。
皆さんよくご存知の『戦艦大和の最期』の吉田満さん、日銀の理事をしていた人だが、私はあの人と縁があって何度か会食した。最初に吉田さんに会った時、吉田さんはまなじりを決して「石原君、ぼくは君を絶対に認めない。君だけじゃない、君の世代を認めない。君らの、ものの考え方を認めない」と言った。
私は、吉田さんがまなじり決してまで言う理由も分かるし、気持ちも分かるから、「それはそうでしょう」と。
彼はその後、アメリカで講演をした時に、戦艦大和の数少ない生き残りだということを聞いた奇特な人が、大和を攻撃したパイロットに会わせてやるといって、勝手にその引退したパイロットを連れてきた。
するとそのアメリカ人が「あの戦艦大和に乗っていたのか。いやぁ、ひでぇ戦いだったな。オレたちは3回爆弾を抱えていって、3回爆弾を落としたが沈まなかった」と、まるで延長、延長でやっと決着したフットボールの試合を思い出すようなものの言い方をされて、吉田さんはそこでどう答えていいか分からなかったという。そこから、彼は少しものの考え方が変わって、戦後の時代を受け入れるようになったそうだ。
価値というのが、変わるのではなく変質してしまった時代、今日起こっている異常な犯罪を眺めると、人間が非常に自己中心的で肥大してしまった。ジャンクフードばかり食べて、自分では歩けないくらい肥大化してしまった人がいる。そういう人間が、内側に何を持っているかというと、何も持っていない。非常に空疎で希薄な人間としての存在しかない。それを表象するのが、ITが表象する現代の文明の便利性ではないか。
私は生理的に嫌いだから、(携帯)電話なんか持ったことないが、ああいう文明の便宜性がもたらす人間の関わり、リレーションシップというのは、本当なんだろうか。やはり、バーチャルなものでしかないと思う。
ここには局長も部長も、若い人もいる。やがて、部長、局長になる人もいるだろう。私の最初の会議の時に、何も知らない奴が知事になったと思うのか、皆、やたら紙を持ってくる。お互い時間がないんだから「10ページの報告は1ページに要約できる。できなければ、君、局長をやめた方がいい」と言った。だからここのところ、幹部の会議は全部、紙1枚。1枚の紙だ。ひとつのアイテムに関して。それで十分つながるんだ。字面を見ながら、足りないところはお互いの感性で補う。
インターネットでの交渉もするが、どうもこう、本物、真正じゃない。文明の便宜で結ばれた人間関係というのは、バーチャルでしかない。そういうものがいろいろな不満、不安を作って現代の奇異な出来事、異常な犯罪を引き起こしているのではないか。
私は、(大阪)池田小で無差別に小学生を殺した宅間という人間を興味を持って眺めていて、ぼくはぼくなりに彼のことが、感覚的に、社会主義学的に分かる。こういう事象が満ち満ちてきて、行政がどういう人間たちを対象に、どれだけの効率を上げるのか、というのはものすごく難しい。1人に気に入られても、ほとんどは気に入らないということがある。
価値の質感がどんどん変わってきている。渋谷でゴロゴロしているような若い連中も含めて、不特定な人を対象に行政をやらなくてはいけない。何が、行政におけるリアリティか、ということを考え直していく以外にない。
行政におけるリアリティって何でしょうかね。皆さん、それぞれ自分の仕事の席に戻って考えてもらいたい。最後は、効率ですよ。財政的、時間的な効率、目に見えないものもあるだろう。行政のリアリティを踏まえながら、かつ少し新しいこと、今までと違ったいきかた、より効率というものを開拓していく。その姿勢が行政官として必要なのではないか、と自戒して新年を迎えた。
何でもありの時代になったが、実は、なくてはならないものはひとつだけで、特に行政に関していえば、それは多くの共感を得られること。都民が納得してくれる仕事を果たすには、行政のリアリティが何であるかを、それぞれが考えて果たしてほしい。
昨年、私は体の調子が100%はっきりしなかったが、今年は110%とり戻して大いに怒鳴りますから、お互いに怒鳴りあいながらやりましょう。頑張りましょう。
(平成17年1月4日・都庁第1本庁舎5階大会議場にて)
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