都政新報
 
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東京最前線/福島県浜通りを歩く/原発災禍の爪痕深く


▲国道6号線沿いのモニタリングポストはいまだ高い数値を示している=2016年3月5日
  
 東日本大震災から5年。津波被害を受けた東北の被災3県では、沿岸部で土地のかさ上げや護岸整備が本格化している。復興はまだまだ緒に就いたばかりだが、それでも未来に向かう道筋が見えつつある。一方で原子力発電所から放射性物質が大量に放出されるという未曽有の災禍を受けた福島県の沿岸部では、他の被災地とは状況が全く異なり、復興が遅々として進まない実態がある。まるで5年前のあの日から時間が止まったかのようだ。記者が現場を歩いた。

 記者が福島県浜通りを訪れたのは今月5日。これまで東北の被災3県には福島県南相馬市から岩手県久慈市まで、年に2~3度訪問しているが、東京に最も近い福島県浜通りの南側には一度も足を踏み入れていなかった。長い間、立ち入りが制限されていたこともあるが、放射能に対する不安感がためらわせていたことは否めない。
 まず、いわき市内で教員をしている大学時代の友人宅を訪れた。浜通り出身の彼は卒業後、地元に戻って教員となった。震災が起きた2011年から市内で勤務している。
 福島第一原発から30~40キロの距離だが、友人は意外にも「生活する上で原発被害を気にすることは、ほとんどなくなった」と話す。
 例えば食事。勤務する学校は自校方式で給食を調理しており、専門の検査員が食材の放射線量をチェックしている。年に数回、数値をオーバーしてメニューが急に変わることがあるが、その場合も福島県産ではなく近隣県の食材が原因だ。それだけ県内の食材は徹底的に検査され、基準値をクリアした食材だけが市場に出ていることの証左でもある。もちろん気にする人も少なくないだろうが、街全体が神経質という状況ではなさそうだ。
■遅れる除染作業
 友人と車で常磐自動車道で福島第一原発周辺を目指す。震災後、復興のため建設が急ピッチで進み、富岡ICから浪江ICまでの区間が15年3月1日に開通した。広野~南相馬区間には数カ所にモニタリングポストが設置されており、この日は毎時0・1~4・4マイクロシーベルトの値を示していた。 
 目に見える形で原発災禍が残っていることを実感するが、友人は「この数値も信じ切れない」と懐疑的だ。モニタリングポストを設置する際、周辺を除染してコンクリートで固めたため、数値が低く出る傾向にあるという。
 確かに、友人が持ってきた線量計とは若干、数値に違いがあった。「半年ぶりに線量計のスイッチを入れた」と友人。地元ではそれほど気にせずに日常生活を送れるということの表れでもある。裏を返せば、ここに住む以上は気にしても仕方ないという諦めか。
 山間部を高架でつなぐ高速道路の眼下には、作付けが制限されている休耕田に汚染土がシートに包まれて山積みになっていた。14年9月以降、県や周辺自治体は中間貯蔵施設の建設を受け入れたが、処理のめどが立たず、放置され続ける汚染土を目の当たりにし続ければ、建設を受け入れざるを得ない状況だったことは想像に難くない。
 富岡ICで高速を降り、富岡町の中心部に向かう。大部分が帰還困難区域に指定される同町に住民の姿はない。人の姿と言えば、立ち入り禁止のためバリケード封鎖する警備員と、道端で除染作業や道路補修を行う作業員が数人いるだけだ。
 他の被災地と異なり、廃屋が今でも多く残る光景が復興の遅れを物語っている。除染が手付かずのため、倒壊家屋の撤去もままならないようだ。
 静まり返った街を抜けると国道6号線に出た。原発事故以降、周辺の国道は通行禁止だったが、14年9月に3年半ぶりに開通した。しかし、居住制限区域や帰還困難区
域の富岡町から浪江町までの区間は自動車しか通行できず、バイクや自転車、徒歩では通れない。交通量は思ったよりも多いが、ほとんどがダンプカーなどの土木作業車だ。
 国道は信号で止まることが無い。交差点が全て点滅信号になっているからだ。国道と交差する道路はバリケード封鎖されているため、信号の必要がないことに加え、高線量の場所に停車させないことも理由だ。路肩に駐車していると、巡回中の警察がすぐに飛んでくるという。
 福島第一原発が位置する大熊町に入ると、手元の線量計は毎時0・6マイクロシーベルトに上がる。さらに福島原発に近づくにつれ、0・8、1・0と上昇する。沿道に設置されたモニタリングポストは毎時3・530マイクロシーベルトを示している。「さすがに1桁台の数値は久しぶりだ」と友人。地元の人にとっても原発周辺は遠い場所だ。
 人がいなくなったことで野生動物も増え、イノシシが国道まで出てくるケースが多いという。「イノシシ注意」の看板も多く設置されている。
 浪江町に入り、しばらく行くと1軒のコンビニが営業していた。原発以北で最初のコンビニだ。この先は信号も機能している。生活基盤は戻ったが、ほっとすることはなく、重苦しい気分が晴れることはなかった。
■「なし崩し」の復興
 いわき市内に戻り、立ち寄った道の駅の前では護岸のかさ上げ工事が進んでいた。敷地内には大きな倉庫のような建物が建っている。「子どもふれあい広場」と書かれた入り口から中をのぞくと、遊んでいる親子連れの姿があった。公園や校庭が汚染されたため、いろんな場所に子供が遊べるシェルターが整備されているのだという。地面は除染のためコンクリートで固められていた。見た目は日常を取り戻しつつあり、日常生活で放射能の影響を感じることはあまりない市内だが、原発災禍の爪痕は市民生活に深く刻み込まれていることを実感する。
 震災から5年が経ち、友人に復興の実感があるかと尋ねると、「実感はない。なし崩し的に、ここまで来ているという感じ」とポツリ。その思いは原発周辺の様子を見れば十分に理解できる。
 福島県浜通りの春は、まだまだ遠い。

 

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